花の日礼拝(説教全文)
掲載日:2017.06.21
6月15日(木)、本校では花の日礼拝をまもりました。
礼拝の様子は、こちらのブログ記事をご覧ください。
礼拝では、聖坂養護学校副校長の藤森茂先生に説教をしていただきました。
以下、礼拝説教の全文を紹介します。
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「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分発揮されるのだ。」
コリントの信徒への手紙二12章9節
おはようございます。聖坂養護学校の藤森です。本日は花の日子どもの日の礼拝で説教奉仕をする機会を与えられ、感謝しております。簡単に自己紹介を致します。私はクリスチャンの家庭に生まれ、子どもの頃から教会は身近な存在でした。高校1年の時に洗礼を受けました。中学・高校・大学と私立だったのですが、ミッションスクールではなく、このように学校の礼拝で説教奉仕をするというのは新鮮な気持ちになります。全くの余談ですが、中学・高校・大学とラグビーをしておりまして、関東学院には親しみを感じております。私は知的に障がいのある子どもたちが通う学校の教員として、今年で28年目になります。そして知的障がい児の父親として17年目になります。今日はそのような立場からお話をさせて頂きます。
多くの人は、障がいがあるのは不幸なことだと思うのではないでしょうか。少なくとも、障がいがあることを羨んだり、あるいは障がいがあって幸せだと言うことは無いかと思います。障がいがあっても構わないが、無いにこしたことはない。五体満足であればそれでいい、というような発言も耳にします。障がいそのものにプラスのイメージはありません。
どうしてでしょうか。私たちの社会は、強さに価値を置き、それを求めます。体力、知力、経済力…、どんな力にしても強い方が良いのです。例えばラグビーのチームを作れば、やはり勝ちたいと思いますし、強いチームを作りたいと思います。スポーツに限らず吹奏楽であれば金賞を取りたいと思います。それだけではないのですが、弱いよりは強い方が良い、できないよりはできる方が良い、と考えます。しかし、神様は「力は弱さの中でこそ十分発揮される」と言われました。神様の使命を果たすにはこの世における「弱さ」が必要だと言うのです。
エドナ・マシミラという詩人が“Heaven’s Very Special Child”(天国の特別な子ども)という詩を書いています。彼女は牧師夫人であり、ダウン症児の母親でした。20年以上前に日本に紹介され、多くの出版物やインターネットに掲載されたりしています。この詩を朗読させて頂きます。大江祐子さんが日本語に翻訳した詩です。
『天国の特別な子ども』
会議が開かれました。
地球からはるか遠くで
“また次の赤ちゃんの誕生の時間ですよ”
天においでになる神様に向かって天使たちは言いました。
“この子は特別の赤ちゃんでたくさんの愛情が必要でしょう。
この子の成長はとてもゆっくりに見えるかもしれません。
もしかして一人前になれないかもしれません。
だからこの子は下界で会う人々に
とくに気をつけてもらわなければならないのです。
もしかしてこの子の思うことは
なかなか分かってもらえないかもしれません。
何をやってもうまくいかないかもしれません。
ですから私たちはこの子がどこに生まれるか
注意深く選ばなければならないのです。
この子の生涯がしあわせなものとなるように
どうぞ神様この子のためにすばらしい両親をさがしてあげてください。
神様のために特別な任務をひきうけてくれるような両親を。
その二人はすぐには気がつかないかもしれません。
彼ら二人が自分たちに求められている特別な役割を。
けれども天から授けられたこの子によって
ますます強い信仰をより豊かな愛をいだくようになることでしょう。
やがて二人は自分たちに与えられた特別の
神の思召しをさとるようになるでしょう。
神からおくられたこの子を育てることによって。
柔和でおだやかな二人の尊い授かりものこそ
天から授かった特別な子どもなのです”
Edna Massimilla(大江祐子 訳)
私が初めてこの詩に出会ったのは、子どもが6歳の時でした。そのときは胸がいっぱいになり涙が出てきたことを今でも覚えています。
「ハンディをもって生まれてきた子の親は特別に選ばれた親なんですよ」ということをわりとよく耳にします。随分前から言われているので、きっとこの詩がきっかけになって広がったのかもしれません。励まされる思いがする一方で、果たして自分は神様のために特別な任務を引き受けられるような親なのだろうか…。あるいは特別な使命がある教師なのだろうか…。ふと、そんなことを思いました。そしてこの「特別な子ども」はどう特別なんだろうか、と考えるようになりました。
神様のための特別な任務を背負っているのは、実は、親や教師ではなくむしろ「特別な子ども」の方かもしれません。神様からのメッセージを伝えるために特別に遣わされた子ども、見た目は弱く、できないことも多く、いわゆる「障がい児」なのですが、これらは全て人間の側、つまり私たちが生活している社会から見た見方です。人間的な価値観から離れて、心と心でその「特別な子ども」と向き合えた時、神様の御心が示されるように思います。思い返せば、これまでの28年間に聖坂養護学校で出会った多くの「特別な子ども」達によって、自分がどれだけ変えられてきたか分かりません。またどれだけ多くのことを学ばされたか分かりません。この子たちとの出会いは私にとって必要な出会いでした。しかし、私自身はなかなかそのことに気付かず、若い頃はむしろ教師としていかに障がい児を支援するか、という自分の使命感を強く意識していたように思います。教員になって11年目の秋に、自分にも「特別な子ども」が遣わされ、そして気付かされました。この子にとって私が必要なのではなく私にとってこの子が必要なのだということをです。それほど多くの恵みがもたらされました。
相模原市の障がい者施設で起きた非常に痛ましい事件のことは皆さんもご存じだと思います。私たちは大変大きな衝撃を受けました。その後に、あるキリスト教関係の団体から出された声明にこのような一文がありました。そのままお読みします。
「もし、社会が強い者だけで構成されていたら、その争い、闘いのために自滅したかもしれない。しかし、社会は弱い者、愛や配慮を必要とする者の存在によって、かろうじて保たれている。」
初めにお話しました通り、私たちの社会は「強い」ことが求められる社会です。「勝つ」ことが求められる社会です。強いこと、そして勝つことを否定しようとは思いませんが、あまりにそのことに比重が置かれるとどうなるでしょうか。常に緊張感があり、常に全力投球を求められ、頑張り続けなければいけない社会になります。社会全体が疲弊してきます。挫折する人が出てきます。おそらく、多くの人がそのことを感じていたと思います。SMAPの「世界に一つだけの花」があれだけヒットしたのは、多くの人が「No.1よりもOnly One」を大切に考えていたからです。にもかかわらず、私たちの社会は「強い」ことが求められ、そしてみんなが自分は勝ちたい、と願うのです。
社会は弱い者、愛や配慮を必要とする者の存在によって、かろうじて保たれています。神様から遣わされたこの「特別な子ども」たちは、社会全体にとって必要な存在なのです。この「特別な子ども」たちには神様から与えられた特別な使命があるのです。しかし、イエス様や多くの預言者たちが当時の社会から受け容れられなかったように、この「特別な子ども」たちが発する神様からのメッセージに心を傾ける人は少ないようです。
さて、もう少し具体的な話をします。「心を傾ける」を別の言い方をすれば「心に寄り添う」とも言えます。相手の気持ちを察する、共感するとも言えます。私たちの社会は、障がいのある人たちにとって生活しにくいことがたくさんあります。そしてその生活のしにくさが理解されないことがしばしばあります。特に知的に障がいがある方、精神に障がいのある方、あるいは発達障がいの方の生活のしにくさは、見て分かるようなものではない為、わがままであると誤解されることもあります。そんな生活のしにくさの一つに感覚過敏というものがあります。この感覚過敏についてお話します。聴覚、すなわち耳からの情報が特に過敏な方がいます。私たちは日常的に色々な音にさらされています。大きい音もあれば、小さい音もあります。今ここで私の話を聞いているみなさんの周りにも実は様々な音が存在します。しかし、みなさんはその音の中で私の声だけを必要な情報として取り入れ、他の音は生活音として意識しないことができます。しかし、聴覚過敏がある方は、身の回りの音が全て同じレベルで洪水のように押し寄せてきます。その中で自分に必要な音を取り出すことが、非常に難しいのです。普通に会話していても大きな声で怒鳴られているように感じてしまう方もいます。このような過敏性が例えば明るさであったり、臭いであったり、皮膚感覚であったりします。私たちが言う「普通」の環境が、感覚過敏のある方にはとても苦しい環境であることがしばしばあるのです。そんなに苦しいのであれば、例えば静かなところで生活すれば良いのではないか、という人もいます。なにもそんなに無理をして一緒に居なくてもよいのではないか。このようにして障がいのある人は「普通の」社会から排除されてきました。実際に「普通の」社会に無理矢理入らせられるよりも、特別な環境を用意される方が安心して生活でききます。しかし、障がいのある人が暮らしやすい社会を別につくるのではなく、障がいのある人も一緒にいて暮らしやすい社会を目指すこと、それがはじめにお話した「特別な子ども」たちに神様が託したメッセージではないかと思います。社会を構成する一人ひとりが、他の人への気配り、心配りができるだけで、今よりもずっと暮らしやすい社会になると思います。
もう一つ、具体的なお話をします。私たちの社会、特に日本の社会は「みんなと同じ」であることを強く好む社会だと思います。ですから、親や教師は子どもにこう言います。「みんなと同じように行動しなさい」そして、子どもたちは大人にこう言います「みんなやってるよ」「みんな持ってるよ」。こういう社会ですから、みんなと違うことを、好奇の目で見ることが多いです。私が子どもの頃は海外からの帰国子女などがよくその対象になっていました。例えば、少し特徴的な話し方などがからかい半分で真似されることもありました。公立学校の個別支援学級に通う子なども、このような対象になることがしばしばあります。先ほどの感覚過敏のところでも触れましたが、私たちの社会は普通の環境の中で普通に振る舞うことが強く求められる社会なのです。その為に、辛く苦しい思いをしている人がいるということを知ってださい。そしてみんなと少し違う立ち居振る舞いに対して、温かく見守ってください。そしてお互いの違いをそれぞれ尊重できる社会を目指したいと思います。
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