校長のつぶやき(73)創立記念礼拝 校長メッセージ
掲載日:2022.10.07
見よ。わたしは新しいことを行う。今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。
(旧約聖書 イザヤ書 43章19節)
今日の礼拝は、創立記念の礼拝です。関東学院の第3の源流である『中学関東学院』とその初代学院長となられた坂田祐先生ついて少しお話しします。
坂田祐先生は著書として「恩寵の生涯」を残されています。その中に「第1回卒業式——建学の精神を高調する——」の回想文があります。それを紹介しますが、それを理解するために色々と背景をお話しする必要があります。
まず、当時の教育事情を説明します。中学関東学院は中学校ですが、当時の中学校は「旧制中学校」といいました。明治19年(1986年)の勅令、『中学校令』に基づく学校制度の中の中学校で、第二次世界大戦後の学校制度改革までの中学校です。1919年中学関東学院が開校した頃は、入学資格はみんなが通う尋常小学校を卒業していること、そして修業年限は5年間でした。
当時、国の目標は「富国強兵」。したがって施策としての「殖産興業」では、男子には工業や農業などの基幹産業に従事することと、「兵制」では有事に際しての兵役に就くことが期待されました。「学制」では尋常小学校で国民皆教育です。が、第二次世界大戦後の学校制度改革前までの旧制中学への進学は国の政策として生徒数を制限する必要があった、そして、進級や卒業もなかなか厳しかったと言われています。尋常小学校を卒業した子どもたちの中での進学率は、都市部では高かったものの、それでも平均で10%~15%程度だったと言われています。特に農村部などでは村で1人~2人という進学の実態でした。
次に、明治維新後の戦争の歴史を少し振り返ります。
1894年(明治27年)8月、日本は清国に宣戦布告し日清戦争を始めます。
1904年(明治37年)2月、日本はロシアに宣戦布告し日露戦争を始めます。
1914年(大正3年)7月、オーストリアがセルビアに宣戦布告で第一次世界大戦が勃発。
同年8月、日本はドイツに宣戦布告して第一次世界大戦に参戦します。
この間、10年間隔で戦争をしたわけです。第一次世界大戦は、1919年(大正8)6月にベルサイユ講和条約の調印で終戦します。
ところで、関東学院はこの1919年の1月に「中学関東学院」を横浜三春台に1月に創立します。それから開校後4年半、1923年(大正12)9月1日に関東大震災が起こります。1924年(大正13)3月に中学関東学院第1回卒業式を行っています。
再び戦争史です。第一次大戦から約10年後、中国での戦争を徐々に始めます。
1928年(昭和3)6月、張作霖爆殺事件
1931年(昭和6)9月、柳条湖事件、満洲事変の勃発と呼ばれる事件です。
1932年(昭和7)3月、満州国成立を宣言。
しかし日本の宣言は、当時の国際連盟の加盟国の多くに認められず、1933年(昭和8)3月に、日本は国際連盟脱退します。
その後、1937年(昭和12)7月の盧溝橋事件で日中戦争がはじまります。
1938年(昭和13)4月1日に「国家総動員法」を制定し戦時体制を整えていきます。
1939年(昭和14)9月、ドイツがポーランド進撃を開始、第2次世界大戦の勃発。
1940年(昭和15)9月、日本は、「日独伊三国軍事同盟条約」に調印。日本軍は、フランス領インドシナ連邦の北部へ進駐します。10月には、「大政翼賛会」が発足。
1941年(昭和16)7月、日本軍は、フランス領インドシナ連邦の南部へも進駐。
そして、同年 12月8日、日本軍がハワイ真珠湾を攻撃し、太平洋戦争を開始。
1942年(昭和17)6月、ミッドウェー海戦、8月、西太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島の戦い、1943年(昭和18)2月のガダルカナル島からの撤退開始で、大きく戦局は後退。
1943年(昭和19)10月、フィリピンのレイテ島の戦いで惨敗、いよいよ本土決戦となり、
1945年(昭和20)3月東京大空襲、4月アメリカ軍沖縄本島に上陸、8月6日広島に原子爆弾、その2日後の8月8日ソ連の対日宣戦布告、8月9日長崎に原子爆弾。そして、
1945年8月14日に日本はポツダム宣言を受諾し、9月2日に降伏文書に調印して戦争は終わります。
中学関東学院の創設と学校運営は、こうした戦争の只中で進んでいくことになりました。創設は、第一次世界大戦の終戦の直前の1919年 1月27日。そして、大きな震災だった関東大震災に見舞われ、その翌年1924年3月に第1回卒業式を迎えます。
さて、坂田祐先生は、その第1回卒業式の回想を始める中で、冒頭で次のように述べています。理解し易いように文章に手を加えています。
「学校の校地に仮校舎が落成し、これに移転して間もなく、大震災に見舞われた。その大震災の後始末も未だできないうちに、第1回の生徒が卒業することになった。卒業式を挙げる講堂がないので、捜真女学校の講堂を借りて式を挙げた。時は1924年3月。卒業礼拝は1924年3月9日、卒業式は3月10日である。先ず、第一に神の優渥(ゆうあく=恵み深いいつくしみ)に対し、心から感謝をささげたい。147名入学したのであったが、第1年から第2学年に、第2学年から第3学年に…と進級不可能な者が多数あったので、卒業するものはわずか47名であった。
この47名が関東学院第1回卒業生として送り出されるのである。したがって、彼らに対する期待は大きい。」
関東大震災は夏休み中でした。生徒は登校していなく、崩れた校舎での犠牲者は教職員の3名で、生徒にはいませんでした。大震災の一か月後に学校を何とか再開しました。生徒の被害は、その時点で判明している数では、死亡3名、生死不明30名。震災での影響が大きかったことは確かです。登校できる生徒は526名中400名だったと坂田先生は記しています。しかし、「147名が入学、47名が卒業」という数字に驚くかもしれませんが、関東大震災の影響もさることながら、進級が難しいという現実もあったわけです。
坂田先生は続けます。次の部分をよく注意して聞いてください。
「私は学院長として、卒業証書を授与し告示を述べなければならない。告示は、第一回目の告示であって最初のものである。県の知事、市長など、官庁の当局者、来賓および父兄(今は保護者)の面前で述べるのである。責任が重い。祈って、導かれるままに、おおよそ、次のような告示を述べた。」
以上が卒業式に関する回想文の冒頭です。
今日私は皆さんに、日本の戦争史を紹介しています。開国後、明治維新からわずか30年も経たないうちに、大きな軍艦も大砲も持つようにもなった。ロシアのバルチック艦隊との日本海海戦での勝利は世界を驚かせたと言われています。国力、軍事力を付けた日本が、国として戦争への道を歩みだす時代の流れの中で、中学関東学院が生まれ営まれてきたということをあらためて知りますが、激しい時代だったのです。
坂田祐先生も若いころ、1904年に始まった日露戦争に従軍しています。当時の先生のそれまでの経歴や立場で、徴兵従軍は避けられないものでした。坂田祐先生は小さな聖書を戦場に持って行きました。皆さんは学校史の学習で聞いているでしょう。坂田祐先生は目にした悲惨さと理不尽さを心に刻んで非戦論者として帰還されました。
その後、関東学院の初代学院長として、非戦論や非戦論に立った意見を唱えていきます。しかし、坂田祐先生個人の言動としてはともかく、個人の信念を学校の意思として決定したり学校として実行したりすることは、当時の社会の風潮から個々の生徒の進路や将来に迷惑のかかることであるとして、坂田先生は苦労をされました。相当の苦労のある決断をしながら、公的権力との無用な摩擦を回避してきたようです。
第一次大戦後、軍による監視や指導も学校に及ぶようになっていました。学校にはその学校担当とされている現役軍人の将校が定期的に検査に来ていました。学校訪問の目的は、学校で行う軍事教育のいくつかの科目の実施の状況を確かめるためです。軍事訓練としての「教練」では生徒の習得した技能の検閲をし、教員に対してはそれらの成績評価について指導をほどこすというものです。
文部省には陸軍の大佐が配属され、学校での軍事教練だけでなく、学校の教育内容についてもいろいろな意見や指示、干渉もするようになっていった時代でした。
回想録には、学校では聖書を教えるな、讃美歌を合唱するな、特に平和に関する歌詞は反戦思想であり、また「天の父なる神」を賛美する歌詞などは日本の「国体」(国家の状態、あり方)に反するものであるから歌わせるな、と記されています。
「…連隊長から学校への配属の将校を通して、私に聖書の授業を止め、讃美歌を止めるよう、婉曲に言ってきたが、私はこう言った。学校教育は文部省の管轄であり、学校での軍事教練のみが軍部の管轄であるから、教練以外の教科や学科課程は、文部省の指令が無ければこれを変えることはできない。学校教練には最善を尽くすから、学校の宗教に関係したことには干渉をしないでほしい、と断った。その後、連隊長は私に直接話すということで、教練査察にために来校した際、教練が大変よくできているとおおいにほめて、宗教教育には一言も言わないで帰って行った…」
思想的に問題があるとして投獄された私立中学の校長先生もいる時代でした。坂田祐先生は、学院長としての強い信念と意地を知恵とともに示した場面です。
坂田先生の卒業式での告知文をかいつまんで紹介します。
繰り返しますが、坂田先生は回想文の最初で、
「告示は、第一回目の告示であって最初のものである。県の知事、市長など、官庁の当局者、来賓および父兄(今は保護者と言います)の面前で述べるのである。責任が重い。祈って、導かれるままに…」と記しています。単に第一回の卒業式だから責任が重いということではなく、公の場で公の発言として、国の批判になることを敢えて言わねばならないという信念と、万一の結果を案じる重い気持ちだったのかもしれません。
告示文の中で明確に次のように語られました。
「…我が国は戦争に勝つことをもって世界に誇っているが、武力では世界文化に貢献することはない。人道上の貢献もできない。願わくは、我が国に人道上のチャンピオンが生まれることである。願わくは、生徒諸子自らがそのチャンピオンとなれ。人道上の武士、諸子の帽章(学生帽につける学校バッチ)の橄欖(オリーブ)が象徴する平和の戦士が多く出ずることを願ってやまない。」
関東学院の校風を覚えるものです。そして、
「…人になること、すなわち人格を完成することは、いかに難しいことか。しかし、実現が困難であっても、その理想に向かってするたゆまぬ努力そのものに価値があるのである。これは生徒諸子が生涯を通して、その実現に努力すべきものである。」
皆さん、今日、世界は混沌状態です。
何が正しくて何がおかしいことなのか。今、我々は地球環境の維持を何よりも考えるべき時に、人は何をやっているのか。それ以前の善悪の判断も立たないのか。人は感情に流され、大きな時代のうねりに包まれやすいものですが、あまりにも情けない非常で残酷なことが、日常で普通にたくさん起こっていることが悲しいです。
こういう時こそ、新しく、あらためて、神様の声を聞くべきなのです。人がつけてきた、人がはまりやすい道ではなく、神様が示す新しい道を見るべきなのです。
関東学院に集められた者、生徒も、教師も、職員も、時代と歴史を超えて、坂田祐先生を通して語られる神様からの言葉、御心として受け止めたい。創立記念の礼拝のメッセージとします。