校長のつぶやき(82)これからの時代の「学力」とは
掲載日:2023.09.15
<1> 学校の役割
AIが組み込まれたアプリが日常のツールとなります。しかし一方で低次元な話で現実の日本の社会を見れば、中等教育までのほとんどの学校が「インターネットでの危険を考慮し使用を制限」などと言い、そして大学からは何の準備もなくフルオープン。そんな舵取りでいいのでしょうか。ICT抜きでは日常が成立しない現実、事件に関与、巻き込まれる生徒や学生が出ても当然です。万引きやいじめと同様に、生きる上での根底的な課題として家庭教育を捉え直すべきでしょう。学校(小中高)は「教育」という言葉に飲み込まれず、倫理的な処罰と支援をもっと合理的に考えていくべきでしょう。これからの時代、学校にとってもっと重要なことは、何のために何をどう学ぶかということを追求することでしょう。
<2> 「Microsoft 365 Copilot」登場
「Microsoft 365 Copilot」が2023年3月16日に発表されました。『日経パソコン―教育とICT』(日経BP刊Spring2023)の記事には、「ChatGPTの言語モデルを巡るサービスの開発競争も加速している。OpenAIに出資する米マイクロソフトは、「GPT-4」などを活用した対話型AI「Copilot」を開発し、「Word」「Excel」「PowerPoint」など「Microsoft 365」のアプリに搭載すると発表した。Copilotは、Officeのアプリの使い方を一変させる可能性がある。例えば、プレゼンのテーマに合わせたスライドデザインや骨子をAIに作ってもらったり、Excelのデータを分析するように指示して売り上げや費用などの項目をまとめたりできるという。「Outlook」では、メールの要点をいくつか入力するだけでAIが文面を作成してくれる。ExcelやPowerPointを使いこなすスキルには、もはや意味がなくなるかもしれない。ビジネスパーソンに求められるのはExcelが使いこなせることではなく、より高次の、目的達成のためにどんなデータをどのように分析すべきか的確に判断する能力などになるだろう。・・・」(P.13から部分的に抜粋、下線部は挿入)とありました。学校では「学び」のあり方についての考え直しと、「学力観」を捉え直すことがますます求められているということです。詰め込み型で、基礎的な「知識量」と「できる技」の測定結果のみを学力としていた時代が終わります。
<3> 求められる力と学力観
後世で反省として語られるべきと思う歴史的な「出来事」があります。1998年の学習指導要領改訂です。4半世紀前、新しい学習指導要領は学習内容の3割削減を提案しました。社会全体が混乱、「学力が下がる!」「下がった!」の大合唱になり「ゆとり教育」と揶揄され、揺り戻しがおきました。しかし、バブル崩壊の後で国際社会の中での日本の産業と経済成長のあり方の根本的な見直しやエネルギーと食料の確保についての再考は重要だったはずで、日本の未来の創造という点で、新しい教育のあり方と絡めて考える必要があったと思います。
しかし、現実は真逆。教育は硬直化が進み、ある意味での教育の秀逸さは担保されても、国際競争力がどんどん下がっていった。「失われた〇〇年」と決して無縁ではなかったと捉えるべき教育改革は、国がいま慌てて「学力論」や「学習の理論」を取り出して考え直そうとしていることからしても、逃した好機だったことは明らかです。日本が「変われない日本」に固まった元凶の出来事と感じます。
当時、政策研究大学院大学教授でそれ以前は文部科学省課長、OECD研究員を歴任した岡本薫氏が、『日本を滅ぼす教育論議』(講談社現代新書2006年1月、「第3章「目標」の設定に関する議論の失敗」(pp.99-100))で以下の様に述べていました。
「いわゆる「学力」についても、これを論議する人々の間に「目標」=「必要な学力」の具体的な内容に関する共通認識がないと、いたずらに議論が混乱するばかりとなる。「結果として何を身に付けていることが必要なのか?」ということを具体的かつ測定可能な形で特定しておかなければ、限定された情報や断片的な事例に基づく各人の「印象」として、「上がった」「下がったという」水掛け論に陥ってしまうからだ。」
17年後のいまにも十分当てはまる論評です。どこを見て何を目標とするのか。大学入試改革を含め、これが少なくとも過去20年間ずうっと日本の教育の課題だったと感じます。基礎的知識の理解や認識、それらによる分別力や応用力を否定する論ではありません。知識の習得段階での停止、その表面的な量的評価での学力観が問題でした。そしていま、社会で出会う事象や課題の解決に必要な分析力、統合力、論理的説明力とコミュニケーション力の育成が各学齢で求められているということは、AIの登場でますます明らかです。
<4> 受動的に終わらずに
マクロな視点での論拠の無い経験則やOECDのPISAテストの「国民平均的」な結果での一喜一憂も含めて、ローカルな現象だけに注目していつまでも停滞してはダメです。AIの時代に生きていく中高生には「生きていく力」として、どういう力を付けるべきなのか、そして、その力をどのように習得するのか、「学び」について基本から考え直してほしいと思います。そして学校にはトータルに「学力観」を考えることが求められていると思うべきでしょう。
具体的には・・・、中高生は学ぶ場面では受動的に終わらず、ここでつけるべき力は何か、学ぶべきことの本質は何かを自ら考えて臨みたいものです。つまり、ここは単なる知識の習得か、それともその知識を習得しつつ習得した知識を通して知るべきことは何かを考えるべきところか、という態度と行動がほしい。難しいかもしれないけれども、獲得した新しい知識をこれまでに学んだこととすり合わせて、自分の興味関心と絡めてどういう視点から取り組むのか、これから何を求めていきたいのか、自分は何を求めるべきなのかについて考える態度を心がけることが必要です。
<5> 岐路に立っているから見える
日本はいま岐路に立っています。世界も環境問題を含めて混迷し岐路に立たされています。しかし未来に向かい、日本には他国にはない優れた力と潜在する力があります。中高生には、自分は日本の強みの中で生きるのか、それとも、日本の弱みを自覚しないままその強みの舞台に立たずにいわしの群れのように付和雷同型で右往左往してしまうのか自らに迫ってほしい。日本と自分の未来に向け、どう学ぶのか。何を見て学ぶのか。そのこと自体を考えることが学力の原点です。もはや知識の集積だけが学力ではありません。
変われない日本社会に依存して将来への責任を問う時代ではなく、一人一人が自分で考える責任を問われる時代。むしろ、それが逆に、草の根的に未来の日本を創ることになると確信します。視野を拡げよ! 学びを深くせよ! 大きな視点で考えよ! 六浦中・高は、これを引き続き訴えたいと思います。