校長のつぶやき(22)アドベントに入ります
掲載日:2018.12.01
12月を迎え、アドベントの期間に入ります。もうすぐクリスマス。今回のつぶやきでは、先日中学生の礼拝での話を掲載します。
イエス・キリストの降誕を待つ、アドベントの期間に入ります。
先週の収穫感謝礼拝の週で、皆さんは一年間のキリスト教での暦について知らされました。「教会暦」では、収穫感謝を以って一年が終わり、クリスマスを待つアドベントから新しい一年が始まるということでした。収穫感謝の祈りを以って象徴的に、この一年間の稔りと自分の歩みを振り返り、その反省の「実」を見つめつつ新しい一年に向かう。キリスト教では、その新しい一年の開始とは、救い主のイエスの到来と出会いで、あらたに自分の人生が「生まれかわって」始まるという意味があるということを、ニコデモの話(ヨハネ3:1-21)を通して知らされました。
さて、皆さんの多くにとって「アドベント」という言葉は、キリスト教の学校に学んで初めて聞く言葉であったかもしれません。世間ではこのアドベントとほぼ同時に、クリスマス商戦が始まります。街ではクリスマス・ソングがいたる所でにぎやかに流れ、イルミネーションが飾られます。クリスマスはイエス・キリストの誕生日、お祝いする意味はよくわからないけれども、楽しく、おいしく、過ごせる時…という雰囲気が一気に漂い始めます。
綺麗に飾られたクリスマス・ツリーの美しさやサンタクロースのかわいらしさ等は、どうかするとそれだけでの美しさやかわいらしさを愛でるものになっているような気がします。クリスマスという言葉からイエス・キリストが離れて、ツリーとサンタクロースが主役に代わったの?と錯覚を覚えることもあります。
イエス・キリストを待ち望むというのは、古代のユダヤの人々にとっては奴隷生活の経験を含めて、苦しい生活からの解放でした。また、イエスの誕生とその生涯を見て知った人たちにとっては、当時のユダヤ教の教えに形式的に縛られがちな生活慣習の中で、神様の本当の愛とその意味を知らせる救世主・イエスの降誕を新たに心に留める時でありました。
もう一方で神様の愛の形としてのイエスの死は、イエスが亡くなってから2,000年を経た今日の私たちにも意味を持っています。それは赦しです。…私たちの心や行動の中にある自己中心的な気持ち。自己中心的であるがために起こる様々な争い。また、争いにならないまでも自分を優先的に考えてしまうという、逃れられない切ない心の暗さや狭さ…。あるいは、どうやっても消し去ることもできない、人に語れない醜い出来事…。それらのことの赦しとして、イエスの死があるということ。このことをあらためてイエスの降誕に向けて想い起こすという、実は、クリスマスは心の中での振り返りの重い時でもあります。
誰にもあるはずです。心の中の深いところに…。人には言えないような、人としての恥ずかしい部分や、語れないこと。重い何かを持っている。その罪と向き合う。そしてイエスはそれを担ってくださる。そうした働き、使命を持ったイエスの誕生が、天からの降誕として私たちに示されるのがクリスマスです。そしてそれを待つアドベント。ですから、イエスを待つというのは、私たちは自分の中の暗くて重い、どうしようもない罪から解放されることを待つことですから、クリスマスを待つアドベントは、実は楽しい時であっていいのです。心から楽しい時なのです。ただ、その楽しさとは何に拠るのかを真剣に考えなければ、クリスマスは、クリスマス・ツリーを飾り、イルミネーションを灯し、そして美味しいご馳走のある食卓とそれを囲む、空騒ぎの楽しさに終わってしまうわけです。キリスト教に依って人生が進み、年齢を重ねるとじわーっと湧き出る嬉しさがクリスマス…。若い皆さんには罪と言われてもピンと来ないかもしれませんが、クリスマスの意味、そのものを考える価値はあります。
一年を静かに、心の成長はどうであったか、ということで振り返る。言い換えれば、人と人の間で生きる人としてのあり方を振り返ることで、つまりは、友との心の交し方、友情のあり方…。「自分を愛するように友を愛せたのか」という観点で自分の成長の振り返りをすることは、人として、とても大切なことです。それが、イエスの降誕の意義とイエスを遣わした見えない神の愛とを新たに感じて待つということに繋がっている。これがクリスマスで、それを待つ時期がアドベントであるということ。あらためてクリスマスを待つ意味を考えてみたいものです。
2018年11月27日中学礼拝 奨励:校長