校長のつぶやき(32)花の日礼拝
掲載日:2019.07.05
今年の花の日礼拝(6月13日)は、北九州市八幡にあるNPO法人抱樸(ほうぼく)の理事長奥田知志さんをお招きして奨励をいただきました。学生時代からホームレス支援に携わってきた奥田さんから、今日の社会における人間関係形成での特徴を伺いました。OECD諸国の中で25歳以下の人たちの死亡の理由の上位が自殺である国が日本。他者に「助けて」という言葉をなかなか言えなくなっている日本の社会の悲しさ。人との関わりを自分の中で遮断したいときに使われるようになった「自己責任」という言葉……。生徒にとっても教師にとっても、日頃の自分の生き方を顧みる時、これまでの苦しかったことを振り返ってみる時、また、社会の事件を考察してみる時に、何かが各人の心に思い浮かぶ、染み入るお話でした。
私は驚きました。…と言えば、生徒たちに失礼になるでしょう。いいえ、嬉しかったのです。生徒それぞれが奥田さんの言葉を鋭く、それぞれの感性で心の深くに捉えていたことが。礼拝を「学校の礼拝」として、6年前から静かに捉えなおしをしてきています。礼拝のメッセージを聴き、自分自身と社会を相関させて見つめる。何を見て、聴いて、感じて、成長するのか。何を勉強するにも、日頃の学びの原点をどこに置くのかが大切です。六浦の実直な教育の原点は、ここにあります。
六浦の実践を生徒たちはたしかに受け止めてくれています。4年生が礼拝奨励の感想を書いています。その言葉に生徒たちの感性を感じました。そのいくつかを断片ですが紹介します。
*……2つのことに気づきました。1つ目は、ホームレスとハウスレスの違いです。お家がない、お金がない、お風呂にも入れない、このような人たちがホームレスだと思っていました。しかしこのような人たちは、ホームレスでもありハウスレスでもあるのです。ハウスレスはお家がないということであって、周りにいる人を頼れない、お家はあるが家族や友人に相談することもできない、そのような人たちをホームレスと呼ぶということを初めて知りました。…(5組女子)
*……親や教師は「みんなと同じ行動をしなさい」と言います。よく考えてみると、現代社会は「みんな同じ」であることを強く求める社会であると思います。だからみんなと違う行動をとる人がいると、好奇の目で見ることが多いのだと思いました。…(1組男子)
*……私は人間のあるべき姿、人間の本質についてはきちがえていたように思えた。この世の中には、困っていることがあったとしても第三者に対してSOSを出すことができている人が少ない。それは人に迷惑をかけないため。確かにこの主張も一理あると思う。だけど視点を変えてみるとそれは本当なのだろうか。……私は互いの痛みを、悩みを分け合いながら生きてゆくべきだと今回の礼拝を通して思った。悩みを受け取る側も人の痛みを感じ寄り添うことこそが人間のあり方だと思った。…(3組女子)
*……私たちは、価値があるかないかということをとても早く判断することができるようになってしまった。本当にそうだなと思いました。……すごく頭を回転させて一瞬でそれを決める…自分にとって価値がないと決めたら何もしなかったり、見て見ぬふりをしたりするのかなと思いました。自分のことしか考えていないと言っていて、私は自分がそうなってしまっていると思いました。…(2組女子)
*……私は自分の短い人生を自然に振り返ることが出来る機会を与えてもらえたと思いました。私は奥田先生の「人はだんだん自分のことしか考えられなくなって、動物以下になっている。」という一言が印象に残っています。これは自分自身を含め、誰もが当てはまっていることだと思いました。……人は本来、支え合って生きていくことが必要で大切だと思いました。「絆には傷が含まれている」と聞いたとき、今まで経験した友人関係を思い出しました。人とコミュニケーションをとり関係を築くにあたって、これまで喧嘩やすれ違いを全く経験しなかったということがなく困っていたけれど、奥田先生の言葉を聞いて少し心が楽になり、そういうものだと思って、これからは柔軟に人間関係の視野を拡げていきたいと思います。…(4組女子)
*……人は迷惑をかけることを恐れて、今「助けて」と言えない社会になっていて、迷惑をかけられることを面倒くさがり自分の損得のことだけ考え、出会った責任から逃れようと「自己責任」という言葉を使っています。それが原因で内面でのホームレス化が進み、自殺する人がいたり、迷惑をかけたくないと自分の子どもを殺してしまう親がいたりします。これは絶対に間違っていて、「絆」には傷が含まれ、迷惑をかけることやかけられることがあるということでした。聖書の箇所にイエスは他人を救い自分を救えなかったとかいてありましたが、自分も自分を捨て自分の十字架を追うイエスのような良い意味でのアホになりたいと思いました。…(3組男子)
生徒の言葉にありますが、何かに追われるような毎日を過ごしがちです。日本の学校は、効率的で機能的な面を慌ただしく追いがちです。毎朝一日のスタートの前に、自分以外のものを通して自分と向き合うときとなる礼拝の時間は、六浦の宝です。