校長のつぶやき(9)~始業式のメッセージ~


掲載日:2018.08.30

校長のつぶやき(9)
2018年8月30日

今日は2学期の始業日。

本校は礼拝の形式で始業式が行われます。始業式の奨励(説教)は校長の役目です。今日は、「旧約聖書」哀歌3章31-33節からのお話でした。

「始業式のメッセージ」
主は けっして あなたをいつまでも捨て置かれはしない。
主の慈しみは深く 懲らしめても、また憐れんでくださる。
人の子らを 苦しめ悩ますことがあっても 
それが御心なのではない。
(旧約聖書 哀歌3章31-33節)

大昔、紀元前1000年頃から100年ほどの間、ユダヤ人たちは12部族が連合してパレスチナに国を持っていました。ヘブライ王国です。国は豊かに繁栄していました。しかし、その繁栄の手段やあり様は、世界の創造主である神様の意志にかなうものであったかどうかは疑わしいものでした。最後の王のソロモン王が有名ですが、ソロモン王の死後、イスラエル王国は南北の二つの国に分裂してしまいます。北のイスラエル王国と、南のユダ王国とになりました。

しかし、北のイスラエル王国は、紀元前722年にアッシリアに滅ぼされました。南のユダ王国はアッシリアに服従して何とか生き延びますが、紀元前609年頃から、かつて苦しい思いをさせられたエジプトに再び支配されるようになります。しかし、脅威となってきたバビロニア帝国に対抗しようと、エジプトと組んで軍事作戦を決行します。しかしユダ王国は惨敗し滅んでしまいます。

首都のエルサレムはバビロニア軍によって包囲され、ユダヤの人々は城壁の中に籠って抵抗しますが、ついに城壁の一角が崩されて攻め込まれ、紀元前586年、エルサレムの都市とエルサレム神殿が破壊されました。ユダヤの人々はバビロニア帝国へ連行され奴隷にされます。自由な意思を持つことのできない暮らしをすることになります。これが「バビロン捕囚」と呼ばれていることは、聖書の時間に何度か学んでいるかと思います。

今日の旧約聖書の「哀歌」は、「バビロン捕囚」の時代に、預言者エレミアが書いたと言われ、神様の気持ちを神様に代わって伝える詩の古い形式の文書です。ユダ王国の首都エルサレムの滅亡と、エルサレム神殿の破壊を嘆き悲しみ、そして、生かされることも、命を奪われることも、バビロン王国の政治と人々の意のままという奴隷としての生活の厳しさとみじめさを噛みしめます。そして神様の救いを信じることを表す詩です。預言者エレミアは、奴隷とされてしまったユダヤの人々に、神様がエレミアに語る言葉を人々に伝えています。

それより遥か昔、ユダヤの人々はエジプトで奴隷となっていた。しかし、ユダヤの先祖たちは神様に守られ、エジプトからの脱出を助けられ、自分の国を持てるまでになった。それなのに、国ができると、人間の様々な欲望がうずまき、人間の自己本位な生き方で人々は暮らし、次第に神様との約束と言葉を忘れ、神様の気持から離れて、独りよがりに歴史を重ねていくようになった。そして、国が丸ごと、ことごとく崩壊してしまう。民は、こういう経験を重ねてきていることを謙虚に思いだすべきだ、今は苦しいが、神様の人間に対する思いをしっかりと思い起こせ!と語っている詩です。

さて、夏休みが終わりました。何だかわからないうちに、色々とやっているうちに、暑い暑いと言いながら頑張っているうちに、あっという間に終わってしまった、と感じている人も少なくないと思います。

私は、皆さんと同じ年頃の頃、ある夏休みの終わり、始業式には、この世の終わり、と感じるくらい暗く重い気持ちになったことを覚えています。二学期は長い、長い学期です。やがて来る冬。冬を終えるといろいろ選ばなければならないことがやってくる。人生の道を選択する日が一歩一歩近づいてくると思うと、何となく厳しくて、不安を感じて、二学期が始まるというのに、深刻な気持ちになったことがありました。夏休みの楽しい日々の充実感はあるものの、その反動として感じた勉強への焦り、楽しく過ぎた夏休みに、妙な後悔の気持ち……そんな気持ちを持ったことを思い出します。

皆さんは青春の真っ只中です。そして青春にいるからこそ、今日この日を、何となく不安であったり、落ち込んだりして感じることもあるでしょう。勉強のこと、進路のこと、友達関係のこと、いろいろと複雑な気持ちを持つことは、あって当たり前、あっていいのです。なければ逆におかしい。変です。あって当たり前と冷静に意識して、人として生きる上での抱えて当然の悩みだ、と楽観していいのです。

今日の聖書の箇所から少し前をちょっと見てください。26節では、「主の救いを黙して待てば、幸いを得る」と語られ、27節では、「若い時にくびきを負ったものは、幸いを得る」と語られています。

夏休みが終わり、皆さんは色々な気持ちでここにいると思いますが、もしも今、何となくつらく重い気持ちなら、楽観しましょう。大切なことは、自分が苦しいと感じていることを不必要に嘆かない、当たり前だとして動揺しない、希望をもって、神様からの救いを信じて静かに待つ。そして、待ちつつ、今の、あるがままの自分を良しとする。良しとすることが誰にとっても大切です。そこから静かに歩み出すことです。

また、今、全く不安のない人、期待でいっぱいの人は、長い二学期ですから、そこは冷静に、必ず躓くことがあることを覚悟することです。しかし、躓いてもそれは当然に起こることとしましょう。躓きや苦しみは、成長しつつある自分が、どこにアイデンティティを探すべきか、本当の価値はどこに置くべきか、自分は何者なのか、ということを考える時なのです。その時を神様に与えられたのだと考えましょう。恐れる必要はありません。楽観することです。

さあ、2学期です。六浦に集う若さあふれる皆さんを、私たち教員はとても愛おしく思う。それぞれが自分の気持ちをあるがままに受け止め、歩き始めましょう。しかし、焦らずに…です。

一言お祈りします。
・・・まことの友とならまし、友なき人の友と
与えて心にとめぬ、まことの愛の人と・・・

天の神様、新しい一日をお与えくださり、感謝します。
日本のあちこちで災害に苦しんでいる人を覚えます。
心の傷を一日も早く癒してください。
いまはただ、あなたに祈ることしかできませんが、
一刻も早い復旧と復興を助けてください。

今日から、2学期が始まります。
どうぞ、わたしたち一人一人を守り
あたらしい歩みの中に、引き出してください。
自分を愛するようにお互いのことを思いやる気持ちを
いつも思い起こさせてください。

この祈りを、イエス様のお名前を通して
御前にお捧げします。 アーメン。